お稲荷様の写真

不思議な石神様

笠懸町鹿の県道大間々尾島線沿いにある籾山美代子さんには不思議な石神を祭ったお稲荷様がある。
高さ44センチメートル、幅45センチメートルの石神はつり上がった太い眉毛にぎょろりとした目が睨みを利かせている。
石の割れ目は大きく裂けた口を表すがどこかユーモラスな顔つきをしている。
籾山家の先祖を海山弓兵は江戸時代から明治の初めにかけて石炭の採掘で大きな富を築き、鹿の皮の庄屋になった。
久平は地元の世話焼き役で周りからの人望も厚かった。

家の中に願い事を入れると願いが叶う

この石神は籾山家で明治に入れ替えをした時井戸の中から出てきた当時の主、邦衛は何の神様か分からなかったがとにかく屋敷の角にあるお稲荷様の木の宮の中に祭った。

お稲荷様を祀ってまもなくどこからか願い事を書いた紙を小さく丸め石神の口の中に入れると願い叶うという噂が流れた。
願い事がすぐに成就し近所の人は願いが叶うと油揚げをあげてありがたがった。
ある女性の夫が家を出たまま帰ってこなくなってしまったことがあった。女性は夫に帰ってきてほしいと願い百人一首の中納言行平の歌を紙に書いた。
「立ち別れいなばの 山の峰にふる まつとしきかば 今帰りこむ」 この歌の下の句だけを石神の口の中に入れて願をかけた。すると夫はすぐに帰ってきて、その後は夫婦円満に暮らしたと言う。祈願は大正時代まで続き人々は盛んに信仰した。

籾山家では正月の初午の日には「正一位稲荷大明神」のぼりを立ててお祝いをし、毎月1日と15日はお稲荷様に酒と米をお供えしてきた。
籾山さんは「明治期には近所の桶職人屋や菓子職人が暮らす長屋があり、賑やかだったようだ。
近所に光明院という寺があったが、火事で焼けてしまった。お寺の代わりではないか、石神を信仰の対象にするようになったのではないか」と話している。

庄屋久平外観写真

庄屋久平外観写真

庄屋久平日本庭園の鹿威しの画像

銅山街道<あかがね街道>

庄屋久平日本庭園の鹿威しの画像

江戸時代には足尾銅山から江戸に馬を使ってたくさんの道が運ばれていました。その道を運んだ道へのことを銅山街道と言われています。
また銅は「あかがね」とも読み、銅山街道は「あかがね街道」とも言われていました。
慶安2年幕府によって制定され足尾銅山で産出された銅を輸送するために作られた道路です。 日本で初の産業物・物産物を運搬するために造られた道であり、日本で最初の『産業道路』とも呼べます。

現在の県道大間々尾島線は、かつての足尾銅山街道にある。
笠懸町付近は県内では珍しい公儀井戸(幕府の井戸)もあり、江戸後期から昭和初期まで旅人の休憩所として栄えた。
また、街道沿いには道祖神や庚申塔など、多くの石造物が村人の手によって造立されている。
光明院は鹿の川村にあった山本派修験院の寺院とされているが、詳しい史料は発見されていない。
大間々町の神明神社の文書に「鹿ノ川高明院」の名前が見られる。

大間々宿

江戸時代は、銅を運ぶ道中にあった大間々町は宿場町として栄えていました。たくさんの人が立ち寄り疲れを癒していたそうです。
また大間々には、胴を安全に置いておくための蔵、銅蔵(どうぐら)もうたくさんありました。
現在でも、大間々町には古い銅蔵の跡がたくさん残っています。